AIランニングコーチ運用11ヶ月からの学び:プロダクト開発が科学的発見になるとき

図1: 左から、Marone、藤原、高橋。形式的な記念撮影よりも、実際のユーザーとの対話を優先する—そんな私たちの実践重視の姿勢を象徴する一枚です。

本記事は、2025年11月13日にタイで開催されたAAII2025(Asia AI Institute)国際シンポジウムでの発表内容をもとに執筆されました。貴重な研究発表の機会を頂戴した全ての関係の皆様、また、発表に聴衆として参加してくださった全ての皆様に、この場を借りて改めて感謝いたします。

TL;DR(要点まとめ)

  • 11ヶ月の実践:世界初期のAI対話型ランニングコーチ「EKIDEN.AI」を、五輪選手・プロコーチと協働で運用

  • 3つのピボット:人間コーチ中心→AI専用、プロダクト→研究、短期目標→長期ビジョン(2027年プロチーム、2032年五輪)

  • 技術的成果:GARMIN等との提携で直接データアクセス実現、客観・主観データ統合、会話ベース振り返りの効果実証

  • エリート選手の実績:藤原新2:41:17(1週間前にフルマラソン)、金子晃裕2:13:05の驚異的記録

  • 核心的発見:人間とAIの役割分担を明確化

    • AIの強み:データの完璧な記憶・分析、早期兆候発見

    • 人間固有の価値:①方向性の決定(藤原新)②非言語的理解・空気を読む(Marone)

  • 7つの新研究領域:Sport Data Science、Human vs AI vs Hybridコーチング等、従来の学術領域に存在しない分野を発見

  • 組織ピボット:プロダクト企業→博士研究支援組織へ、実践と研究の深い統合を目指す


AIコーチは本当に機能するのか?

「AIコーチは本当に機能するのか?」—この根本的な問いに答えるため、私たちは11ヶ月間、世界初期のAI対話型ランニングコーチ「EKIDEN.AI」を開発・運用してきました。この過程で得られた洞察は、単なる技術的成果を超え、人間とAIの協働に関する科学的発見へと発展しました。

プロジェクトの特徴は、2名のプロコーチとの密接な協働にあります。元ロンドン五輪マラソン選手で現SUZUKI ATHLETE CLUBコーチの藤原新、そしてトップランニングチームであるTWO LAPSのコーチ出身で、パーソナルトレーナーとしても多くの競技の日本代表選手のサポートしてきたMarone Kota Aziz。彼らの実践的洞察なしには、この研究は実現しませんでした。五輪レベルの選手とトップコーチが、自らの限界を認識し、AIとの最適な協働を模索する—このプロセスが、予想を超える発見をもたらしました。

そして、この発見のスピードを可能にしたのが、ドイツ在住のハッカーNguyễn Quang Trungの存在です。高速なプロダクト開発と優れたアーキテクチャ設計を得意とする彼の参画なしでは、検証と同等のスピードでプロダクト開発と顧客検証を進めることは不可能でした。技術的な卓越性が、実践と研究の高速な反復を支えています。この技術面での挑戦については、また別の機会に詳しくご紹介します。

図2: まず、根本的な問いから始めさせてください:AIコーチングは本当に機能するのでしょうか?私たちの研究をユニークなものにしているのは、2名のプロコーチとの協働です。彼らはAIシステムと共に活動し、純粋に技術的な開発だけでは決して得られない洞察を提供してくれました。

11ヶ月の旅路:3つの重要なピボット

この11ヶ月間は、3つの大きな方向転換を経験する旅でした。各ピボットは、私たちの理解を根本から変える転換点となりました。

第一のピボット:人間コーチ中心からAI専用へ

当初、私たちは人間コーチを支援するプラットフォームとして設計しました。人間コーチの負担を減らし、より多くの選手に質の高い指導を提供する—それが目標でした。しかし、実際に選手と対話する中で、根本的な気づきを得ました。

選手が求めているのは「トレーニングメニュー」ではなく「理解と学び、そして自信」だったのです。既存の多くのアプリがメニュー生成に注力する中、選手たちは「なぜこのトレーニングが必要なのか」「今の自分の状態をどう理解すべきか」「このまま続けて大丈夫なのか」という根本的な疑問を抱えていました。

この気づきにより、私たちは複雑な機能を大幅に削減し、AI対話に特化したシンプルな設計へと転換しました。メニューを作るのではなく、対話を通じて選手が自ら理解し、自信を持ってトレーニングできるよう支援する—それがEKIDEN.AIの新しい方向性となりました。

第二のピボット:プロダクトから科学研究へ

運用を続ける中で、私たちは単なるビジネス以上のものを発見していました。ユーザーの行動パターン、AIとの対話による心理的変化、プロコーチが自らの限界を認識していくプロセス—これらは、従来の学術研究では捉えられていなかった現象でした。

特に印象的だったのは、2名のプロコーチが独立して同じ結論に到達したことです。「データの網羅的把握は人間には不可能だ」「でも、最終的な方向性を決めるのは人間でなければならない」—このような洞察は、実践の中からのみ生まれるものでした。

私たちは、これは科学的研究であると認識するに至りました。人間とAIの協働、コーチングの本質、行動変容のメカニズム—これらに関する根本的な問いに、実践を通じて答えを見出しつつあったのです。

第三のピボット:短期目標から長期ビジョンへ

当初の目標は、β版リリースとユーザー獲得という、典型的なスタートアップの短期目標でした。しかし、発見の深さと可能性の広がりを認識するにつれ、私たちのビジョンは大きく変化しました。

2027年に世界初のAIコーチドプロチームを発足させ、2032年には五輪出場を目指す—これらは単なるビジネス目標ではありません。最高競技レベルでAIコーチングを科学的に検証するという、学術的コミットメントなのです。ラボの中の実験ではなく、オリンピックという世界最高の舞台で検証する。この野心的な目標が、私たちの研究の本気度を示しています。

技術的ブレークスルー:3つの重要な発見

ブレークスルー1:ハードウェア企業との戦略的提携

GARMIN、POLAR、SUUNTO、WHOOPなど主要フィットネスデバイス企業との提携による直接データアクセスを実現しました。これは単なる技術的改善ではなく、ユーザー体験を根本から変える変革でした。

従来、EKIDEN.AIの存在していなかった世界では、選手はChatGPTなどを使用し、トレーニングデータをスクリーンショットで撮影し、手動でアップロードする方法が取られることが多かったということが、私たちの調査で明らかになっています。この「たった数秒の手間」が、データの包括的な連携ができないのみならず、実は大きな心理的障壁にもなっていたのです。直接のデータアクセスによりこの障壁を除去した結果、ユーザーのアクセス頻度と満足度が劇的に向上しました。

藤原新コーチは、この変化を現場で実感しています。「スクショ不要になってから、選手たちが明らかに頻繁にAIと対話するようになった。わずかな手間の違いが、継続性に大きく影響することを実感しました」

ブレークスルー2:客観データと主観データの統合

心拍数、ペース、睡眠といった客観データだけでは不十分であることを発見しました。RPE(主観的運動強度)、その日の感想、メンタル状態、「なんとなく違和感がある」といった微妙な感覚—これらの主観データが、AIにも人間コーチにも不可欠だったのです。

しかし、主観データの入力は面倒です。そこで私たちは、優れたUXデザインに注力しました。ワンタップでのRPE入力、音声での感想記録(近日公開予定)、絵文字での気分入力—これらにより、詳細な主観データを心理的負担なく収集できる仕組みを構築しました。

結果として、AIと人間コーチ両方の判断精度が向上しました。客観データが「何が起きたか」を示すのに対し、主観データは「選手がどう感じたか」を示します。この両方があって初めて、総合的で的確な判断が可能になるのです。

ブレークスルー3:会話ベースの振り返りの力

単なるデータ表示ではなく、AIとの対話を通じた振り返りが、トレーニングに対する深い理解と自信の構築につながることが観察されました。

従来のアプリは、グラフや数値を表示して終わりでした。しかしEKIDEN.AIは、「今日のトレーニングはどうでしたか?」「心拍数が高めですが、どう感じましたか?」と問いかけます。この対話プロセスが、選手の内省を促し、自己分析能力を高めることが分かってきました。

定量的にも、振り返りの回数が増加し、セッション時間が延びました。定性的にも、選手たちの「自分のトレーニングを理解している」という自信が明らかに向上しています。

エリート選手が語る、AIコーチングの実際

理論や分析だけでなく、実際のトップアスリートが驚異的な成果を上げています。

藤原新選手:2週間で2回のフルマラソン

藤原新選手は、2024年11月に驚異的な記録を達成しました。10月26日に3時間15分37秒でフルマラソンを走り、わずか1週間後の11月2日に2時間41分17秒(平均ペース3:48/km)を記録したのです。

この「2週間で2回のフルマラソン、しかも2回目は30分以上速い」という偉業の裏には、EKIDEN.AIとの綿密な対話がありました。AIは彼のデータを分析し、最初のマラソンを「本番へのチューンアップレース」として位置づけ、中3日のLTトレーニング(レースペースより速い3:42/km)で刺激を入れ、完璧なピーキングを実現しました。

藤原選手はこう語ります:「何年もマラソンに取り組んできましたが、AIとの対話により新しい洞察を得ました。最も重要なのは、トレーニングの振り返りが増え、そのプロセス自体がモチベーションを高めたことです。データを見るだけでなく、AIと『なぜ』を考える対話が、自分の理解を深めてくれました」

金子晃裕選手:世界との対話

金子晃裕選手(コモディイイダ)は、2024年7月のゴールドコーストマラソンで2時間13分05秒(総合9位)を記録しました。高校時代の1500mベストは4分37秒、大学もサークルからのスタート。故障に悩まされながらも、箱根駅伝、ニューイヤー駅伝を経て、今、世界で戦っています。

彼にとってEKIDEN.AIは「日々の相談相手」です。「今日は追い込むべきか、休むべきか。EKIDEN.AIは『もう一つの視点』として、天気や疲労、主観的感覚とデータを組み合わせて、一緒に考えてくれます。速さではなく、いかに意味ある進歩をするか—それをAIと一緒に考えられることが、今は楽しいんです」

金子選手の言葉は、EKIDEN.AIの本質を捉えています。最速の選手を作ることが目的ではなく、「今日を意味ある一歩にしたい」すべての人に寄り添うこと。それが私たちの目指すコーチングです。

核心的発見:人間とAIの役割分担

最も重要な発見は、2名のプロコーチが実践を通じて到達した、人間とAIの役割分担の明確化です。

人間コーチの限界—正直な自己認識

両コーチは共通して、データの網羅的把握、包括的記憶、高度な分析、兆候の早期発見をAIの比較優位性として認識しました。

藤原新コーチは語ります:「正直に言えば、複数の選手を見ていると、データを完全に把握することは不可能です。3ヶ月前のトレーニング内容、微妙なペースの変化、心拍数のトレンド—これらを全て記憶し続けることは、人間には無理なんです」

Maroneコーチも同意します:「24時間モニタリングは物理的に不可能ですし、多変量データを同時に分析する能力にも限界があります。疲れているときは判断もブレます。これを認めることが、AIとの協働の第一歩でした」

この「五輪レベルのコーチが自らの限界を認める」という正直さが、今回の研究の出発点でした。

AIの比較優位性—完璧な記憶と分析

AIの強みは明確です:

  • 完璧な記憶: 全選手の全データに即座にアクセス、情報の取りこぼしゼロ

  • 高度な分析: 複雑なパターン抽出、多変量相関の即時計算

  • 早期の兆候発見: オーバートレーニングや怪我リスクの予兆検出

  • 一貫性: 感情や疲労に左右されない客観的判断

  • 24/7対応: 継続的モニタリングとリアルタイムフィードバック

藤原新コーチは、AIの「兆候発見」能力に特に注目しています。「人間だと見逃してしまう小さな変化—心拍数の微妙な上昇、睡眠の質の低下、RPEと客観データの乖離—これらを早期に検出できるのは、AIの大きな強みです」

人間固有の不可欠な価値—2つの洞察

しかし、人間にしかできないことも明確になりました。そして興味深いことに、2名のコーチはそれぞれ異なる、しかし補完的な人間の価値を特定しました。

藤原新コーチ:「方向性の決定」

藤原コーチが強調したのは、最終的な戦略的意思決定は人間が行う必要があるということです。

「AIが選択肢とデータを提示してくれても、最終的に『どの方向に進むか』を決めるのは人間です。リスクを取るか安全策か、短期的成果か長期的成長か、パフォーマンスか健康か—これらのトレードオフには価値判断が伴います。そして、その決断の責任を取るのも人間です」

彼は印象的な比喩を使います:「AIは完璧な地図を提供してくれます。でも、目的地を選ぶのは人間です。AIはどこに行けるかを示してくれますが、どこに行くべきかは、選手とコーチが決めるのです」

Maroneコーチ:「非言語的理解と空気を読む能力」

Maroneコーチが特定したのは、データには現れない人間固有の感覚能力です。

「選手が『大丈夫です』と言っていても、表情や態度、声のトーンから『本当は疲れている』と分かる瞬間があります。練習場に入った瞬間の雰囲気、チーム全体のモチベーション状態、誰かとの関係性の微妙な変化—これらは数値では捉えられません」

彼が使う「空気を読む」という日本語表現は、実は文化を超えた普遍的な人間の能力を表しています。非言語的コミュニケーションの理解、文脈の把握、タイミングの見極め—これらは、どの文化でも人間のコーチに不可欠な能力です。

理想的な協業モデル:完璧な補完関係

この2つの洞察を統合すると、理想的な協業モデルが見えてきます:

AIの役割:選択肢とデータを網羅的に提示する。「あなたには3つの選択肢があります。データはこれを示しています」と伝える。

人間の役割:方向性を決定し、非言語情報を察知する。「データを見た上で、今この選手に必要なのはこれだ」と判断する。

これは置き換えではありません。完璧な補完関係です。AIがデータ分析という重労働を担当することで、人間コーチは本当に人間にしかできないこと—戦略的判断と感情的サポート—に集中できるのです。

7つの新研究領域の発見

この11ヶ月の実践経験から、少なくとも7つの新たな研究領域が明らかになりました:

  1. Sport Data Science - 客観・主観データ統合の新手法、主観的指標の定量化

  2. 人間対AI対ハイブリッドコーチングの比較研究 - それぞれの効果、適用場面の最適化

  3. AIコーチド選手の行動変容パターン - 動機付け、学習曲線、自律性の発達

  4. 人間コーチの認知的限界の定量化 - 記憶容量、処理能力、判断の偏り

  5. 方向性決定機能の構造分析 - 戦略的意思決定プロセス、価値判断のメカニズム

  6. コーチングにおける非言語的コミュニケーション - AIでは捕捉不可能な情報、文化的変異

  7. 人間・AI相互作用の心理学 - 信頼構築、依存のリスク、最適な協働パターン

これらは従来の学術的専門性や支配的な理論や知見が(少なくとも私たちが把握している限りは)必ずしも存在していない領域です。私たちは、こういった領域について、データサイエンスを核に、新たな学際的研究の可能性が大きな領域と考えています。これらの領域は、実践と研究の深い統合なしには発見できないと信じています。

プロダクト企業から博士研究支援組織へ

この認識を受け、私たちは組織の根本的なピボットを決定しました。プロダクト企業から博士研究支援組織へ。

これはプロダクトを放棄するということではありません。むしろ、プロダクトと研究を深く統合することで、実践的応用と科学的知識の両方を前進させるということです。EKIDEN.AIというプロダクトが、同時に研究プラットフォームとなる。ユーザーは最高のコーチングを受けながら、同時に科学の発展に貢献する。

そして、この新しい領域で博士号を取得できる研究者を育成します。「AI×ランニングコーチングで博士号」—これは現在、どの大学のプログラムにも存在しません。私たちが、その道を切り開きます。

2027年の世界初AIコーチドプロチーム発足、2032年の五輪出場という目標は、この決意の表れです。これらは単なるビジネス目標ではなく、最高競技レベルでこれらの洞察を検証するという科学的コミットメントなのです。

結論:プロダクト開発が科学的発見になるとき

私たちの中心的な洞察は、「プロダクト開発が科学的発見になりうる」ということです。

これは以下の条件が揃ったときに起こります:

  • ドメインエキスパートと深く協働する - 表面的なアドバイスではなく、日々の実践に深く関与する

  • エキスパート自身が自らの限界を明確に認識できる - 五輪コーチが「私には無理です」と言える正直さ

  • 実システムを十分な期間運用し、実際の行動パターンを観察する - ラボではなく実世界で

  • 学びに基づいて柔軟にピボットする - 当初の計画に固執しない勇気

  • 一部の洞察は実践からのみ得られることを認識する - 机上の理論では到達できない真実がある

これは、AI×エキスパート協働という新しいパラダイムを表しています。実践者と研究者が協力することで、実践的応用と科学的理解の両方を前進させることができます。

私たちは単により良いコーチングツールを構築しているだけではありません。人間とAIがいかに協働できるかという、根本的な真実を発見しているのです。そしてその発見は、ランニングコーチングを超えて、あらゆる専門領域に応用可能な普遍的な洞察となるでしょう。

謝辞

本記事は、2025年11月13日にタイで開催されたAAII2025(Asia AI Institute)国際シンポジウムでの発表内容をもとに執筆されました。貴重な研究発表の機会を頂戴した全ての関係の皆様、また、発表に聴衆として参加してくださった全ての皆様に、この場を借りて改めて感謝いたします。

EKIDEN.AIの詳細については、公式ウェブサイト( https://ekiden.ai )をご覧いただくか、Stravaクラブ「EKIDEN.AI」にご参加ください。研究協力や博士課程へのご関心がある方は、お気軽にお問い合わせください。

武蔵野大学国際データサイエンス学部では、私たちと一緒に、起業家的な思考を持って研究を推進する仲間を歓迎します。実践と研究を融合させ、新しい知見を生み出す—そんな挑戦を共にしませんか。2026年4月から、一緒に世界を変えていくことを楽しみにしています。

Yusuke Takahashi PhD

Entrepreneur, Computer Scientist, Cycle Road Racer, Beer Lover, A Proud Son of My Parents, Husband, Father, Trail Runner

https://medium.com/@aerodynamics
Previous
Previous

Learnings from Operating an AI Running Coach for 11 Months: When Product Development Becomes Scientific Discovery

Next
Next

International Research Spotlight: Aging Societies and Inclusive Digital Design